市高 同期会報告 <2014年10月16日・函館湯の川温泉 花びしホテル>

                    昭和19年 函館市立中学校入学者70周年同期会 集合写真
                   (平成26年10月16日 於:函館湯の川温泉花びしホテル)

 

大東亜戦争と梅津福次郎翁を思い起こして
- 市中入学70周年記念同期会の開催-

 

 私たち市高2期生は当初「函館市立中学」に入学したが、その後、敗戦に伴う学制改革によって函館市立高校に編入されたこともあって、入学は一緒でも卒業年度は必ずしも同じはないという複雑な学生生活を過ごした。
 我々同期は既に80才台半ばの高齢となり、毎年一堂に会していた全国同期会も、この辺で何らかの記念会合にしようという声が上がり「入学70周年記念同期会」と銘打って10月16日に函館に集まる事になった。
 午後5時30分、函館湯の川温泉「花びしホテル」に全国各地からの仲間35名が集まり、集合写真撮影の後に宴会に入った。禿げ上がった額に初めは顔も思い出せなかった相手も、戦時中の援農の苦労話や米軍艦載機による函館空襲、ガマやタンクなど先生のあだ名の由来などについて話しあっている内に、当時の童顔と名前を思い出すようになった。
 振り返ってみれば、我々の中学生時代は戦争一色に塗られた最中であった。函館市立中学が開校した昭和15年は皇紀2600年の節目にあたり、「海ゆかば」の作曲で有名な作曲家「信時潔」が作曲した校歌も「とき肇国のもと遠く、紀元二千六百年...」の歌詞に始まるように、皇国史観に基づいたものであり、この年には海軍の零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の試作機が完成している。開校翌年に始まった大東亜戦争も当初の輝かしい戦果が次第に影を潜めるようになり、私達が入学した昭和19年には悲惨な特攻作戦が始められ、10月になって神風特別攻撃隊が出撃し、若い学徒兵が皇国の為にと命を散らすように変わっていった。図らずもこの年の10月から70年後、にかっての皇国少年の入学70周年記念同期会が開かれたのも、何か因縁めいている。
 想い出話が尽きない宴会も、当時の校歌合唱で閉会となる。部屋に戻ってから入った温泉で仲間の体を見回すと、大きな手術の傷あとや湿布あとが散見され、八十数年を生き抜いた仲間の歴史を見る想いがした。
 話は前後するが、同期会開催に先立って有志数名で母校を訪れ、春に着任したという西田校長にお目にかかって、母校の近況についてお話を伺う事が出来た。更に西田校長には母校開校にあたって多大の私財を寄付した梅津福次郎翁を称える梅馥園を案内して戴いた。
 戦時中、米軍艦載機来襲の際には梅馥園側の防空壕に入ったものだったが、一帯はきれいに整備されており、入学当時の雰囲気が保たれていたのは嬉しかった。
 歴史に「もし」という言葉は無いというが、もし当時の金で60万円という莫大な寄付が梅津翁から無かったならば、窮乏した函館市の財政では市立中学を開校させる事は不可能であったに違いなく、開校していなければ当然この日の同期会もある筈がなく、仲間と友人関係になる事も無かった。
 中国に「井戸の水を飲む時には、井戸を掘った人の苦労を思え」という諺があるというが、函館で同期会を開くにあたって梅津翁の功績にささやかでも報いるべきと、些少ではあったが今後の何かのお役に立てば...という事で、有志寄付金を西田校長にお渡しした。その後、西田校長からこの寄付金で「梅馥園」「青雲の木」を初め駐車場や花壇など、本校の環境整備に使うリヤカーを購入したとのお手紙と写真が送られて来た。リヤカーには「昭和19年函館市立中学校入学同期会 東京支部有志一同寄贈」とのプレートが貼られており、私共としては良い記念になった。
 また残念ながら碑面の文字は、長い年月に風化によって殆ど読み取れない状態になっている。この碑文の復旧を図る事が次の課題であると思っていたが、その後、西田校長の教育委員会への働きかけで対応について動き始めたと聞いているが、これが予算化される事を願っている。同時に我々同窓生もこの実現に何らかの支援をしたいものである。出来れば、平成27年度秋の新幹線「函館北斗駅」の開業を目処に、当初の姿に戻ればと思っている。
 ふるさとは遠きにありて思うものという言葉があるが、函館の街並みと母校や梅馥園は、青春を思い出させる心の文化遺産である。


                           関東青雲同窓会 市高2期生 小山 光

 

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 有志で母校を訪問

 西田校長(梅馥園にて)

 寄付金でご購入いただいたリヤカー